久芳文書・佐藤文書 (東京大学史料編纂所影印叢書)

 

東京大学史料編纂所影印叢書 久芳文書・佐藤文書 syoho45-pub

影印叢書は、本所の所蔵にかかる原本史料を精選し、影印によって刊行するものであり、本冊には、『久芳文書』『佐藤文書』および附録若干を収めた。 『久芳文書』(百二十六点)は、安芸国久芳(広島県東広島市)の出身で、戦国期に毛利氏に属し、江戸期も引き続き萩藩毛利氏に仕えた武士、久芳氏が伝えた文書である。また、『佐藤文書』(百十一点)も、毛利氏に属した武士、佐藤氏に伝わった文書である。 戦国期の両氏は、主人の指示を受けてさまざまな実務を担当する、中級の家臣であったようだ。『久芳文書』にも『佐藤文書』にも、毛利元就・隆元・輝元、吉川元春小早川隆景など、戦国期の毛利一族が両氏宛てにしたためた書状類を、数多く見ることができる。自筆と判断されるものや、父子または兄弟が連署したものも少なくない。毛利一族の書状類を、これだけの規模で、しかも良質の図版で見ることができる出版物は、過去に例がないと思われる。書状の様式や筆跡、花押などを観察する上で、本書は従来の出版物にはない利便性を備えているはずであり、毛利氏の研究者を中心に、各方面で歓迎されるものと信じる。 書状の内容は、毛利氏が久芳氏を山陰に、佐藤氏を九州に派遣したことにかかわるものが目立ち、それぞれの働きぶりを、詳しく知ることができる。毛利氏の勢力圏が広がってゆく中で、その最前線に彼ら中級家臣の奮闘があったことを、この両文書はよく示している。なお、久芳氏は、毛利氏が台頭する以前は、大内氏に属していた。このため、『久芳文書』には、大内政弘の下文や感状など、同氏関係の文書も見ることができる。 以上のほかにも、本所には毛利氏・大内氏関係の原本史料が若干あり、その中から大内義隆書状など四点を、附録として収めた。これらは、いずれも特定の文書群に属さず、それぞれ単独で蔵書登録されているものである。蒐集文書・成巻文書の一部として存在している毛利氏・大内氏関係史料については、当該の文書群の中で扱われるべきであると判断し、それらを抜き出して本書に収めることは控えた。 なお、良質な図版の提供が本叢書のねらいであることから、解説は意識的に簡潔なものとした。各位のご理解を得たい。 (カラー図版二頁、例言・目次一二頁、図版二九八頁、解説一六頁、本体価格二五、〇〇〇円) 担当者 鴨川達夫


東京大学史料編纂所報』第45号p.47


久芳文書・佐藤文書 (東京大学史料編纂所影印叢書)

 

梵鐘(ぼんしょう) 山口市指定文化財

 

●梵鐘(ぼんしょう) 山口市指定文化財 http://www.city.yamaguchi.lg.jp/bunkazai/bunka/a27.html

工芸品 昭和51年12月21日 市指定有形文化財 所在地 :山口市大字嘉川2091番地 所有者 :萬福寺 アクセス:上嘉川バス停から北西へ徒歩約5分この梵鐘は、総高98.8cm、口径61.0cmで、上・中・下帯、草の間とも無文、乳(ちち)は4段4列に配し4区合計64個である。竜頭(りゅうず)は太く堂々としており、撞座(つきざ)は八葉の蓮華座(れんげざ)であるが、中房が複雑で豊かであり、池の間の4区に銘文が彫られている。 銘文によると、天正4年(1576)に久芳賢直(くばたかなお)が長門府中の鋳物師安尾春種(やすおはるたね)に鋳造させて、嘉川(かがわ)八幡宮に寄進したものとわかる。久芳賢直は北条時政の子孫で、芸州久芳村を領して久芳氏を称し、大内氏に仕えていたが大内氏滅亡後は毛利元就に仕え、賀川地方(山口市嘉川)の領主となった。 安尾春種は、長州府中(下関市長府町)の南金屋(みなみかなや)の鋳物師である。安尾氏は、その系図によると鎌倉時代から府中で鋳物師を世襲し近世に至っている。 萬福寺は嘉川八幡宮の社坊であったが、明治の神仏分離に際し、この梵鐘は嘉川八幡宮から萬福寺に移された。

久芳 水颯

名前 久芳 水颯
生没年 ?~?
列伝 http://tenjin.coara.or.jp/~primrose/haiku1.html 筑前芭蕉門下で名の知れた俳人安芸国(広島)出身で当主の「忠左衛門」は東京の「久芳淳七氏」、門司の「久芳勇氏」の先祖に あたるそうです。俳号を「水札」と号していましたが、後に「水颯」と変えました。 関屋も本陣守の竹屋の久芳家も分限者(大金持ち)で、黒崎宿に伝わる古い謡(よう・唄)に歌われていました。 『花の黒崎 酒屋が五軒 心とむるな久芳・関屋』 『久芳も関屋も 昔の事よ 今は熊手の 住吉屋』 黒崎の「御茶屋守」の竹屋の久芳氏の出身地、安芸国広島県)には、中世に大内系国人「久芳氏」が見られるようです。また、「久芳」と言う地名も広島市近郊に残っています。この久芳と何らかの関係がある人物と考えられます。 水鶴鳴 やしきの下の 田植えかな  水颯

久芳 賢直 (くば かたなお)

名前 久芳 賢直 (くば かたなお)
生没年 ?~?
列伝 官位 :不明 居城 :安芸国賀茂郡久芳城 賢重の子。折敷畑合戦後、父と共に毛利家に降る。 天正元年、因幡の武田高信の元に派遣 された。 大内氏に仕えていたが大内氏滅亡後は 毛利元就に仕え、賀川地方(山口市嘉川)の領主となった。

久芳賢直 - Wikipedia

久芳 賢重 (くば かたしげ)

名前 久芳 賢重 (くば かたしげ)
生没年 ?~?
列伝 官位 :右京進対馬守 居城 :安芸国賀茂郡久芳城 安芸国人の一人。旧名兼重。陶晴賢が石見三本松城を攻めた際、 同陣するも、 手傷を負う。 折敷畑の合戦後、子の賢直や毛利与三と共に毛利に降った。 戦績 :津和野三本松城の合戦 (http://www7a.biglobe.ne.jp/~onmyousansaku/ikusa1.htm) (1554年3月2日~8月23日) 吉見正頼 1200人 VS 総大将 大内義長(陶晴賢) 1万5000人 出陣:1554年3月1日に大内義長を総大将とした先鋒・陶晴賢に江良房栄・内藤隆世・白井賢胤・乃美賢勝・ 勝間田盛治・脇兼親・伊香賀家朋・久芳賢重を 携え津和野へ出兵。 前哨戦:吉見正頼が津和野三本松へ向ってきた敵将・乃美賢勝・久芳賢重と交戦。 吉見の勝ち。

久芳(くば)について

 

[caption id="attachment_10" align="alignright" width="110"]亀甲に抱き茗荷 亀甲に抱き茗荷[/caption]

久芳と言う名字で、「くば」と読みます。

未だに同じ名字の人に出会った事が有りませんが、mixiでこの名字を検索すると沢山の方がいらっしゃるようでビックリです。

前々からこの"久芳"という珍しい名前に興味が有ったので、調べてみました。

以下、判明した事をご紹介しておきます。

少ない名字とは言え、現在ではいくつかの流れの久芳が有る様ですので、ご了承下さい。 ちなみに、我が家の家紋は、「亀甲に抱き茗荷」ですが、他の久芳さんからいた情報では、「北条鱗」の方が多いです。

[caption id="attachment_9" align="alignright" width="110"]北条鱗 北条鱗[/caption]

まず、父から聞いた話では、以前”久芳会”と言う会が作られて、"久芳"の由来等を調査している会が有ったそうです(まだ有るのかは分かりません)。 また、父は会に参加していたわけではなく、以下はあくまでも聞き及びのようですが、

『中国山陰地方に"玖波(くば)"と"久芳(ひさよし)"と言う地名がある。  それが合わさって、久芳(くば)と言う地名が成った。 また、久芳城と言う城も有った。』 との事です。 いつ頃にその漢字と呼び名に成ったか等詳細は不明です。

次に、私が(主にネットで)調べた内容です。

両親の出身地が山口で、その辺りに少ないですが、他にも久芳の名字があるとの事で、そこら辺を考えると、安土桃山時代は毛利家と関わりがありそうなので調べたところ、久芳賢重(くば かたしげ)久芳賢直(くば かたなお)の父子を見つけました。  "久芳城"が居城だったと言う事なので、父の話とも一致します。

元々、大内家に仕えており、大内家が滅んで(乗っ取られ?)陶家に仕えていたようです。 賢重は、兼重からの改名で、息子も賢直と言う、陶晴賢から"賢"の偏諱を受けているので、元々陶家よりだったのかもしれません。 ※偏諱とは元服時に主人・烏帽子親の名前の一字を自分が新しく名乗る名前に使用することです。

そして、「折敷畑の合戦」後以後、毛利についた様です。

二人から更にたどると、北条時政源頼朝の妻北条政子の父)の子孫で、芸州久芳村を領して久芳氏を称したとの事です。

と言うことは、平氏ですね。 ただし、北条時政桓武平氏の流れというのは、信憑性が無いとの噂が…。

また、家紋が「北条鱗」の方は、こちらの系統の可能性が高いです。

大内氏に仕えていたが大内氏滅亡後は毛利元就に仕え、賀川地方(山口市嘉川)の領主となったそうです。

久芳城が、どこに仕えてた時に居城としたのかが不明ですが、城持ちでもあるので、そこそこイケてる家臣な気がします。 そろそろ、信長の野望に登場しても良いのではないでしょうか。

私が調べた中で、歴史上、久芳の名前で見かけたのは、以上二人だけです。

他に何かご存じの方がいらっしゃいましたら、是非連絡を頂けると嬉しいです。