「とらちゃん」さんから頂いた情報(2006年08月15日)
私も久芳という苗字について興味がありました。 私が小学生の時山口県柳井市にある願成寺に行き 住職にお聞きしたところ久芳家の略歴がそのお寺の 本尊の裏に記載されているとの事で拝見させていただき ました。 その後、住職にお願いして書写していただき表装して 自宅に飾っております。
私の父は以前の久芳村(現在は合併して広島県福富町=久芳城のあった所)に行った事があるそうです。城跡といっても山の上に井戸がある程度のものらしいのです。久芳家は柳井と萩に分かれたと聞いた事がります。
関ヶ原の合戦後、柳井の久芳家は漁業に転向し、萩の久芳家が武道を続けたそうです。 もともと家紋は風呂敷に書かれており、戦場で風呂に入る時誰の武具かわかる様に風呂敷を武具の上にかけていたようです。その為兄弟でも家紋を分けていたのかもしれませんね。
願成寺(日蓮宗)の本尊の裏に記載されている久芳家の略歴
桓武天皇後流十代孫伊豆国條の庄に居住し茲に因て北條四郎平時方と称す三台孫従五位上北條遠江守平時政鎌倉幕府執権の始なり、四代孫北條称名寺上総介 平實政 實喜二年鎮西探題に任ぜられる周防国守と成り熊毛郡岩城山に居城し岩城判官と号す 十一代孫北條壱岐守為時應安年 大内家の臣神代某勧めに依りて大内弘幸公に属し 安芸国豊田郡西條郷之内 久芳村窪山に築城し一族数代居住し村号を以って久芳と改い為時より四代孫久芳?部介平永清康助享徳年間大内尼京太夫多々良政弘公の後見を勤務し嫡男久芳兵庫介平廣清二男久芳右衛門尉平清の三男久芳村馬寄平清定嫡孫久芳因幡守賢直等を大内政弘公より毛利輝元公江へ尼子晴久 防禦の為附置かし毛利輝元 吉川元春 小早川隆景の三公に仕え 山陽山陰且つ朝鮮征討総大将毛利輝元公の御指揮に依りて渡韓し?々軍功を顕し諸公の感心状博末現今所蔵す 天文天正の際大内義隆 義長 輝弘の諸公 陶晴賢 滅亡の後 久芳一族等十刕守元就公に属し行形の通久芳村に居城し、慶長五年関ヶ原敗戦の後 輝元公?御討入の砌り久芳村を捨て御跡を慕い奉り久芳壱岐守久芳杢充 等 長門?(萩)に居住し久芳常陸守は周防国伊保庄南村海辺に隠遁し武道を捨て漁を業と成し名つけて磯 鰡網と云う 葛を以って網を製造し高浜の海中に打 鰡を漁す 是れ周防長門西国の鰡網の?矢なり。漁業は慶長年間より現今に到る毛利家よりの書類数通所蔵す。居所の宅地の字を阿月と称し此時民家七戸ありと言傅ふ。宗名は徃ち 真言宗安芸国久芳村正覚寺 福島正則の為め?寺と成り 後真宗に改む 伊保庄南村隠?後 常陸守嫡男政栄より願成寺壇徒となる 家図は毛利家記録写なり
久芳清兵衛平清純男 久芳 清 久芳 寿政 明治三十年十一月 二十世 光誉上人代